ケン

これは、もうかれこれ約1年前の話。


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朝起きると母親から携帯にメールが届いていた。
「ケン死にそう。2週間前からなにも食べないの。今日すごく寒くて、もう歩けないので外から台所へ連れてきました。あったかくて気持ち良さそう!もう長くないね。老衰だね」
とのメッセージのあとにはケンの写真が貼付けてあった。


ケンはもうすぐ16歳になろうとしている。
人間でいったら80歳をこえている年齢だ。
ケンの死は数年前から覚悟していた。
帰郷するたびに「会えるのもこれで最後かな」と声をかけてお別れしてきた。
しかし、死ぬ前にもう一度会いたいと思った。
もう一度、ケンと目を合わせて会話したいと思った。


そう思うといてもたってもいられず、新幹線に飛び乗った。
新幹線の中で書こうと思ってもってきた原稿も手につかない。
頭の中はケンとの思い出で埋め尽くされていった。


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ケンが我が家にやってきたのは、たしか僕が中学2年生のときだった。
同級生の明子ちゃんが飼っていたビーグル犬の子供として生まれた。
ケンはそのメスのビーグル犬と野犬との間にできた子供だった。
だから、ケンは望まれて生まれてきた命ではなかった。
しかし、そんなことは僕ら兄弟にはどうでもよく、もうひとり兄弟が増えたみたいに家はにぎやかになった。
よちよち歩きの子犬は、母親によって『ケン』と名付けられた。


ケンがうちにはじめて来たときのことを鮮明に覚えている。
それは、春だった。
段ボールの中でうごめく薄茶色の命はぬいぐるみのようで、僕は何時間も飽きずに見続けた。
毎日、部活動を終えて、家に帰るのが楽しみになった。
技術家庭の時間に木工の授業があったとき、僕は迷わずケンの小屋を作った。
夕飯の前に散歩をするのが日課になった。
よく夕飯のおかずを残して、ケンにあげた。
ケンはいつも僕の近くにいた。


サッカーの試合で負けたとき、ケンと田んぼのあぜ道を歩くとサッカーのことなんて忘れられた。
高校のとき好きな女の子を家に連れてきたら、ケンは怒って吠えた。
その女の子と別れたとき、ケンは心配そうに僕の顔を振り向きながら前を歩いた。
大好きなおばあちゃんが死んだとき、ケンをさすりながら号泣した。


ケンと一緒に歩いたり、なでたりするとどんなときでも心が落ち着いた。


家の周りの田畑を自由に走りまわるケンの姿が大好きで、よく首輪をとってあげた。
親父は「人様の迷惑になる」とか「車にひかれたらかわいそうだ」といって僕を怒ったが、僕は知らんぷりをした。
ケンが喜んで走る姿がただただみたかった。


進学のために18歳の春、ケンと僕は離ればなれになって暮らしはじめた。
実家に帰るというよりは、ケンに会うために年に数回は帰るようした。
あまり散歩が好きじゃない弟に「もっと長い散歩にケンを連れていけ!!」と本気で怒ったこともあった。
ケンのそばにいない自分がえらそうに言える立場ではないことはわかっていたけれど。
離れて暮らしていてもケンは僕のことを覚えていて、いままでと同じように接してくれた。
僕が駅から歩いて実家へ帰ると、小屋の前にポツンと座って、待っていた。
知らないひとには、牙をむき出しに吠えた。
お座りとかお手とかは苦手だったけど、番犬として立派な犬だった。


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上越新幹線燕三条駅につくと雪が降っていた。


車で迎えにいこうかという弟の気遣いを断って、歩いて実家へ向かった。
なぜだか歩きたい気分だった。


台所の中央には段ボールに入ったケンがいた。
その隣ではイスに座って父がテレビをみている。
段ボールの中のケンは目を開いたままじっとしていた。
「ケン!」と声をかけるも反応がない。
体を揺すってみるけれど動かない。
「スポイトで水くれてやれ」と親父。
ケンは自分の力で水も飲めない体になっていた。
「動かねーよ」
「さっきまで動いてたんだれや。死んだかや?」
今度は父がケンの背中をさすってみた。
なんの反応もなかった。



ケンは死んでいた。

親父いわく、30分前まではスポイトの水を飲んでいたという。
間に合わなかった。
せめて死ぬ瞬間は一緒にいてあげたかった。
ケンが僕のことをわからなくても、意識がなくなるまで近くにいてやりたかった。

ケンは僕をいろいろ助けてくれたけど、僕はケンのために何かしてあげれただろうか?
高校を卒業すると勝手に東京へ行き、ときどき帰ってくる僕をケンはどう思っていただろう。


僕はケンの隣に布団を敷き、一晩ケンと一緒に寝た。



翌朝、家族みんなで相談した結果、家の庭に埋葬することになった。

ツバキとゆずの木の間に穴を掘る。


軽くて、骨張ってガリガリのケンの体を穴の中に横たえ、好きだったドッグフードを周りに置いた。


いつまでも眺めていると父が
「いいか?」といってケンの体に土をかけはじめた。
僕はどうしてもケンの上に土をかけることができなく父の行動をただ見守るしかなかった。
父の目には涙が溜まっていた。
父もケンが好きだった。
毎朝散歩をして、毛を櫛ですいてあげていた。
僕はがむしゃらにケンの体の上に土をかけはじめた。
スコップですくう土が重い。
目から涙が止めどなく流れた。
目の前が見えなくなった。
それでも僕は必死になってケンの上に土を盛った。


ケンの隣のツバキはきっとキレイな赤い花を咲かすだろう。
ケンの隣のゆずの木はいつか実をつけ、お風呂に入れて僕らをあたためてくれるだろう。

ケンは僕の人生の半分を一緒にいきてきた。

そのケンは、もうどこにもいない。


この事実ほど、いまの僕を落ち込ませるものはこの世にない。


街角で犬を見たとき。
ケンが大好きだったちくわを見たとき。
ケンをふと思い出す。
すると一週間経ったいまでも涙があふれてくる。


帰り際、親父はいった。
「せつねぇな。もう犬は飼わねえ」
でも、僕はまた犬を飼いたい。
哀しいければ哀しいほど、僕らはケンから大事なものをたくさんもらったということなんだ。

ケン、またどこかで会えるといいね。
そのときは、また田んぼのあぜ道を競争しようぜ。
レーニングしておけよ。

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ケンが死んでもう一年が経つ。

僕の部屋には、ケンがいつもつけていた鎖が飾ってある。



これを見るたび、雪で覆われた田んぼの中を一緒に駆け回ったときの、あの湿った冷たい風が僕の中を吹き抜けていく。


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